村山鋼材株式会社は、故村山文雄(先代社長)によって昭和17 年に個人商として始まりました。
以来70 余年に渡り、鋼材一筋で発展を続けています。
製造業にコイルセンターという新しい役割を創設し、迅速で安定した鋼材供給に貢献してきた当社の歴史をご紹介します。
村山文雄29 歳時、個人経営を法人組織に改組。
旧軍需工場を買収し、事業を拡大していく。
昭和30年代に始まった鉄鋼業の合理化投資(軽量化、高品質化、効率化、拡大生産)のキーワードをコイル化と読み、メーカーとユーザーを構造的につなぐコイル加工業の可能性を確信。
昭和32年、富士製鐵室蘭製鉄所のストリップミルを見学し、吹雪と寒さに震えながら二日かけて製造ラインの見取り図をスケッチした。それを参考に、独力で流通業界初の本格的レベラーラインを開発。
東京都大田区森ヶ崎に東京第一工場を開設(のちに移転)。同年8月、富士製鉄株式会社(現日本製鉄株式会社)の指定シャーリング工場となり、同社の素材供給系列に入る。
同年12月、日本初の中厚板幅広レベラーカッティングラインを開発。二基設置する。
日本の鉄鋼業界に先駆けて、世界初のコイル連続式ショット・ブラスト・スキンパス・ラインを完成。
従来、コイルセンターでは困難とされていた厚板28mm を切断できるジャンボカッティングライン一号機(JCL-1)を開発。
オイルショック後の製造業のニーズは、「軽薄短小」志向へと転換。自動車、電機の需要産業の発展とともに業績を伸ばした。
業界活動における功績が評価され、褒章を拝受。
浦安倉庫の開設および営業倉庫業の許可取得。
工場の拡大に伴い、近隣住民に迷惑がかからないよう東京工場を閉鎖。ジャンボカッティングライン1号機をリニューアルして千葉県浦安市に移設した。
「地域経済への影響力が大きく成長性が見込まれるとともに、地域経済へのバリューチェーンの担い手」として選定されました。
村山文雄(大正7 年生まれ)、12歳で新潟から上京し丁稚奉公をしながら勉強。学卒後は料理の道を修行したが、日中戦争、太平洋戦争に従軍し、復員後は会社勤めで資材関係を担当。鉄との関わりができ、独立後は鉄関係の機械について独学で研鑽を積んだ。昭和19年、東京都大田区に前身である鉄鋼商を開業。
村山文雄29 歳時、個人経営を法人組織に改組。
旧軍需工場を買収し、事業を拡大していく。
シャーリング加工に特化した法人を設立。社員は材料倉庫の二階に住み込み、家族同然の中で仕事に明け暮れた。
昭和30年代に始まった鉄鋼業の合理化投資(軽量化、高品質化、効率化、拡大生産)のキーワードをコイル化と読み、メーカーとユーザーを構造的につなぐコイル加工業の可能性を確信。
昭和32年、富士製鉄室蘭製鉄所のストリップミルを見学し、吹雪と寒さに震えながら二日かけて精製ラインの見取り図をスケッチした。それを参考に、独力で流通業界初の本格的レベラーラインを開発。
東京都大田区森ヶ崎に東京第一工場を開設(のちに移転)。同年8月、富士製鉄株式会社(現新日本製鐵株式会社)の指定シャーリング工場となり、同社の素材供給系列に入る。
同年12月、日本初の中厚板幅広レベラーカッティングラインを開発。二基設置する。
日本鋼管株式会社(現JFEスチール株式会社)の指定工場となり、コイルの委託剪断加工を行う。また、昭和34 年には三菱商事株式会社の特約店となる。
日本の鉄鋼業界に先駆けて、世界初のコイル連続式ショット・ブラスト・スキンパス・ラインを完成。
業界団体の役員に就任するほか、各地に存在していた業界団体をまとめた全国規模の連合会設立に携わる。鋼板加工業界の安定化や加工賃向上に尽力。昭和41年1月、城南鉄鋼会会長。同年4 月、東京都鉄鋼取引改善連合会常任理事。同年7月、関東コイル鋼板工業会理事。42年11月、全国スリットレベラー連合会理事。43 年5 月東京鉄鋼販売業連合会常任理事。45年6月、全国特約店連合会理事。46年12月関東コイルセンター工業会会長。
ショットブラストによるコイルの連続表面仕上げコイルより厚鋼板を製造する装置など、特許5件、実用新案1件を発明。
従来、コイルセンターでは困難とされていた厚板28mm を切断できるジャンボカッティングライン一号機(JCL-1)を開発。
オイルショック後の製造業のニーズは、「軽薄短小」志向へと転換。自動車、電機の需要産業の発展とともに業績を伸ばした。
ジャンボカッティングラインの商標登録を取得(No.1296641号)。
昭和55年7月、ジャンボカッティングラインの改造により、業界最大の28mm コイル切断設備を開発。昭和56年5月、ジャンボカッティングライン設備の特許権を取得(No.1048083号)。
全国コイルセンター工業組合を設立し、初代理事長に就任。自ら研究した業界流通調査原案を元に、統計調査を確立。理事長以来17年間、業界のまとめ役として尽力する。
ジャンボカッティングライン設備の塑性調整器(内部残留応力除去)に関する特許権を取得(No.1121670号)。
昭和58年10月、新開発のローラーコーターと特殊塗料によるジンショット鋼板の塗装設備の特許権(No.1155555号)ならびに連続塗装方法の特許権(No.1169930号)を取得。
業界活動における功績が評価され、褒章を拝受。
将来を見越して東京でのショット加工から撤退を決定。ホットコイルへ照準を定め、浦安の地に資本金の30倍以上もの大型投資を開始。
工場完成直後にバブル経済が終焉を迎え、影響は甚大だったが、国内最大級の工場設備を備えたことで不動の地位を築いた。事故ゼロを目指し、業界初の完全無人化加工を可能にするジャンボカッティングライン2号機、3号機を完成。
浦安倉庫の開設および営業倉庫業の許可取得。
工場の拡大に伴い、近隣住民に迷惑がかからないよう東京工場を閉鎖。ジャンボカッティングライン1号機をリニューアルして千葉県浦安市に移設した。
「地域経済への影響力が大きく成長性が見込まれるとともに、地域経済へのバリューチェーンの担い手」として選定されました。
昭和30年頃までは、高炉メーカーのホットストリップミルの性能の安定性が悪く、ミスコイルが発生していました。それをスクラップにせず、何とか良品に改良して製品化する道はないかと考えたのが、村山文雄がレベラー開発に乗り出したきっかけです。
高炉メーカーにもレベラーはありましたが、性能はそれほど高くありませんでした。
また、そもそも鋼材のような巨大かつ重量のある素材を高炉メーカーからユーザーに直接届けるのは流通に無駄が多く発生します。
コイルの納入と加工に特化した専業体制を作れば、より高品質な材料をより早く需要家に届けることができる。その役割を担うことに商機がある──。
そのアイデアと手描きのスケッチだけで業界をゼロから作り上げた先代は、まさに鉄屋と言える熱意と勤勉さの人でした。
すべてが最初からうまくいったわけではありません。これまでの設備投資費は40億円を越えます。特に技術が必要なホットレベラーに進出したため、数限りない失敗もありました。
それを越えて、コイルセンター業界は鉄の流通の最大ネットワークになりました。
私たちは先代のスピリットを受け継ぎ、これからも技術研鑽に挑戦していきます。